2025年2月13日木曜日

藤澤利喜太郎による洋算の導入: 「掛け算の順序」を批判する前に知って欲しいこと

「掛け算の順序」を日本に導入したのは、小学校教師ではなく、明治の数学者で、その代表が藤澤利喜太郎です。 最初期に西洋に留学した数学者の1人で、菊池大麓と並んで、日本の算数・数学教育の基礎を作った人です。 彼らが和算から洋算、つまり西洋の数学に切り替えました。 もちろんトンデモではありません。 日本の数学者をまとめる日本数学会は、藤澤の生誕150周年を祝うページをわざわざ作っています。 そこから引用します。

近代日本にあって、菊池大麓がまず西洋流の数学教育を導入したのに対して、藤澤は数学関係では初めて本格的な研究論文を執筆しドイツで理学博士となり、ドイツ流のセミナリー方式を数学研究のために導入し、高木貞治など後進を育成しました。中等教育のために教科書を執筆し、教員講習も行いました 。

この引用で注意して欲しいのが「中等教育のために教科書を執筆し、教員講習も行いました」の部分です。 初等教育の教員を養成する師範学校は、中等教育に位置付けられていました。菊池は幾何学の教科書を書いていますが、藤澤は算術の教科書を書いています。 このような算術の教科書は国会図書館のデジタル・コレクションで見ることができます。 例えば、『算術教科書 上』(1896年、大日本図書)です。

まず掛け算の定義の部分を引用します(p.34)。

第一の数に第二の数を掛くるということは第一の数を第二の数が示す度数だけ採りて加へ合はすといふ意にして, 第一の数を被乗数, 第二の数を乗数, 被乗数に乗数を掛けて得る結果をと称す。 [カタカナをひらがなに、旧漢字を新漢字に変えた。強調は原文ママ。以下同様]

掛け算に交換則が成立することが次に説明されています。ただし、この部分には実は条件が少し足りていません(p.35)。

被乗数と乗数を交換するも其積は変わることなし,

注目して欲しいのは、次の部分です(p.54)。

掛け算の総ての場合に於て乗数は必ずや尋常の数即不名数ならざるべからず, 例へば5を三円倍する或は7円を3里ダケ採るといふが如きは総て意味なき言なり, 之に反し被乗数は尋常の数にても又名数にても可なり。

名数に或る数を掛けて得たる積は被乗数と同名なり。

「不名数」は"単位がついていないふつうの数"です。「名数」は"単位がついている数"、つまり量です。 ここで述べているのは、量×数、数×数は定義されているが、数×量、量×量は定義されていないということです。 量×数=同種の量ですが、これは算数教育では俗に「サンドイッチ」と呼ばれるものです。

ということは、2番目の引用に反して、量×数では、数×量が未定義なので、交換則は成立しません。

「掛け算の順序」を批判する前に知っておいてほしい、最低限の数学

なぜ、これを書いているか

前提となること

  • 数学的に間違っていないことを「間違っている」と主張する人が多い。
  • 批判しているのに、自分が使っている体系での掛け算の定義を知らない人が多い。

お願い

この文章を読んで、どこかの部分が「間違っている」と主張したい場合には、それを証明して、どこかに投稿してください。 証明ができないなら「間違っている」と言わないでください。 公理系と定義が違えば、証明する内容が変わるというのは、現代の数学の大前提なので、 別の体系で証明しても意味はありません。 文句をつけたいなら、例えば下の1.の体系のもとで、一般に交換法則が成り立つことを証明してみてください。 「掛け算に順序がある」という教科書を書いたニュートンや高木貞二を超える数学者として褒めたたえられることでしょう(大学1年生の知識で不可能なことがわかります)。

書いているのは、どういう人か

正規職にたどりつくまで、なぜか塾や予備校で数学を教えていた言語学者。 当時からメタ理論なことばかり言っていたので、仲間からは「哲学の人」と呼ばれていた。 明治時代からの代々、教員の家系。

3種類の掛け算

次のような掛け算はいずれも定義できます。つまり、どれも間違っていません。

  1. 交換法則が成立しないことがある掛け算(古代から近代、現代でも初等教育で使われる)
  2. 交換法則がいつでも成立する掛け算(近代後半からの応用科学、定義を示さずに中等教育以降で使われている)
  3. 順序がないので交換法則じたいが存在しない掛け算(誰も使っていない)

1. 交換法則が成立しないことがある掛け算

大半の人が習ったのは、この体系です。 そういう検定教科書しか今では存在しないからです。 文科省の『指導要領解説』は、この立場です。

掛け算をイメージするときに、数のみを思い浮かべる人が多いのですが、 現代風にいえば、 加法 + についての可換な半群$X$と自然数$\mathbb{N}{}_{+}$について、$X\times\mathbb{N}{}_{+}\rightarrow X$ の写像で、 $n$ の次の自然数を$n'$ としたとき、次のように定義されるものです。

\(x \times 1 = x, x \times n' = x \times n + x.\)

この「累加」は素朴に書けば、つぎのようなものです。

\(x \times 1 = x, x \times 2 = x + x, x \times 3 = x + x + x, \cdots.\)

これで交換法則が成立するのは、$X = \mathbb{N}$ のときに限られます。

半群$X$を連続量にして、自然数から実数$\mathbb{R}$に拡張します。 「倍」や「比」と考えますが、これを説明すると長くなるので、いずれ別稿にします。 なお、歴史的には、連続量の「比」として、実数が作られていきます。 連続量として長さを主に使っているのが、エウクレイデス(ユークリッド)の『原論』です。 高木貞二の『数の概念』も そういう方針です。

いずれにせよ、こういう体系における掛け算は $X\times\mathbb{R}\rightarrow X$ という写像です。 そのため、交換法則が成立するのは $X$ も数である場合に限られます。そのため、応用問題の立式の段階では、順序を気にする必要があります。 小学校の算数での「サンドイッチ」も、これによります。 例えば、つぎのような問題を考えてみます。

時速4km で2時間、進む道程はどれだけか。

\(4\textrm{km} \times 2 = 8\textrm{km}.\)

次のような式は、いずれも未定義なので、許されません。

\(4\textrm{km/h}\times 2\textrm{h}, 2 \times 4\textrm{km}, 4\textrm{km} \times 2\textrm{h}, 2\textrm{h} \times 4\textrm{km}.\)

2. 交換法則がいつでも成立する掛け算

上の1.のような体系は、不便なので、$4\textrm{km/h}\times 2\textrm{h}$ のような式が使える体系が使われています。 そうしないと、おなじみの次元解析ができません。 しかし、困ったことに、これができる掛け算の定義をきちんと書いてあるものは、ごく少数です。 そのため掛け算の定義を尋ねると、1.のものを答える人が大半です。

この体系では、量を$\{\textrm{km}\}\times\mathbb{R}$ のように"数と単位を掛けたもの" として扱います。 掛け算は、数どうし、単位どうしを掛けたものとして定義します。 このとき、単位の掛け算は、次数の足し算です。 また、数自体も「無次元の量」とみなします。 つまり、$\{1\}\times\mathbb{R}$ を$\mathbb{R}$ と同一視します。

この体系で交換法則が成立するのは、実数$\mathbb{R}$が可換な体であることだけでなく、単位が可換な群(単位元は$1$)であることにもよることに注意してください。 また、 $4\textrm{km/h}\times 2\textrm{h}$ は計算できますが、$4\textrm{km/h}+2\textrm{h}$は計算できないので、この体系自体は体や環ではありません。

1.とは異なり、この掛け算には「累加」「倍」「比」のような分かりやすい「意味」がありません。 そのため、どういう現象が掛け算で表すことができるかを判断するために次のような定理を用意します。

半写像$f: (\{\mathbf{u/v}\}\times\mathbb{R}) \times (\{\mathbf{v}\}\times\mathbb{R}) \rightharpoonup \{\mathbf{u}\}\times\mathbb{R}$ が次の条件を満たせば、 $f(x\mathbf{u/v}, y\mathbf{v}) = x\mathbf{u/v}\times y\mathbf{v}$ と掛け算で表すことができる。

  • $f(x\mathbf{u/v}, 1\mathbf{v}) = x\mathbf{u}$,
  • $f(x\mathbf{u/v}, y_1\mathbf{v} + y_2\mathbf{v}) = f(x\mathbf{u/v},y_1\mathbf{v}) + f(x\mathbf{u/v}, y_2\mathbf{v})$,
  • さらに$f$における$\mathbb{R}\times\mathbf{v}$の定義域が連続であるとき、\(\lim_{y\mathbf{v}\rightarrow{}b\mathbf{v}} f(x\mathbf{u/v},y\mathbf{v}) = f(x\mathbf{u/v},b\mathbf{v}).\)

これが「掛け算の意味」と言われているもので、(全体量)=(1当たり量)×(いくつ分)という図式です。 ここの「いくつ分」が1.と違って、量でいいことにも着目してください。 数式で書きましたが、イメージして欲しいのは正方形のタイルをもとにした「かけわり図」と呼ばれるものです。 中学受験経験者や受験算数・受験数学関係者は「面積図」として知っているはずです。 (これを抜きに、つるかめ算や食塩水を説明したら、理解できる生徒はどうしようもなく減ります。)

これによりようやく、みちのりを求めるときに 4km/h×2h = 8km のような式を書くことができるようになりました。 また、いったん4km/h×2hという式を作ってから、交換法則により2h×4km/hという式を導くのはかまいません。

しかし、上の定理を使うのであれば、いきなり2h×4km/hと書くときには、説明をする責任が生じます。 2h = 2km/(km/h) ではあるのですが、これがどういう「1当たり量」なのか、説明できるでしょうか。 いわゆる「双対問題」を考えれば、いいのですが、とうてい自明ではありません。

なお、念のためですが、上の条件で引数を逆順にしたものを定理にしてもかまいません。 どちらでもいいので、20世紀に英語圏では順序を逆にすることが増えています。 そうであろうとも、個人的に両方とも定理にするのは美意識の問題で、ダサイと思いますが。

気をつけて欲しいのは「半写像」なので、掛け算であっても対応する現象がないこともあることです。 例えば、$x$ in (インチ)が何cmなのかを考える場合は、2.54 cm/in × $x$ in = $2.54x$ cm のような式しか、現実に対応しません。 そうであっても、1 cm/in × 3in = 3cm のような計算じたいはありえます。 何かの計算の途中で出てくる可能性があります。

3. 順序がないので交換法則じたいが存在しない掛け算

「順序がない」と「交換法則が成立する」は違うことを理解してください。 通常の意味での掛け算の記号を〈×〉としたとき、次のようなものを考えます。

\(g(\{\langle{}x, y\rangle, \langle{}y, x\rangle\}) = x\times{}y.\)

なお、このとき、以下のようになります。

\(g(\{\langle{}x, x\rangle\}) = g(\{\langle{}x, x\rangle, \langle{}x, x\rangle\}) = x\times{}x.\)

ここでこの新しい掛け算の表記を〈・〉と書くことにします。つまり、

\(x\cdot{}y = g(\{\langle{}x, y\rangle, \langle{}y, x\rangle\}).\)

このとき、下のようにいっけん交換法則が成立しているように見えます。ただし、あくまでも見えるだけで、交換法則じたいが存在しません。

\(x\cdot{}y = y\cdot{}x.\)

というのも、これが成立する理由が$\{\langle{}x, y\rangle, \langle{}y, x\rangle\} = \{\langle{}y, x\rangle, \langle{}x, y\rangle\}$ なので、 見掛けが違うだけの同じ式だからです。

こういう体系をつくるのは簡単ですが、誰も使いません。とくに利点がないからです。

まとめ

単純に数学として成立するか否かということであれば、

  • 掛け算に順序があるものも、ないものも作れる。ない場合には、交換法則じたいがない。
  • 掛け算に順序がある場合、下のどちらもありうる。
    • 交換法則がいつでも成立するもの
    • 交換法則が成立しないことがあるもの

そうであるにもかかわらず、どれかを否定する人を私は軽蔑しています。