2024年1月31日に閉鎖が予告されているスラド https://srad.jp/ から自分の日記の一部をこちらに移しました。 主に数学と教育関係のものです。 その他のもの、言語学やマイノリティ関係の映画に関するものなどは、消えるにまかせることにします。
日記間のリンクは、重要そうなものは置き換えていますが、そうでないものは置き換えていません。
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教育関係者がときどき持ってる強迫概念の一つが 「知る=分かる=出来る」というモノだと思う。 これを看破したのは、板倉先生@仮説研 (いいリンク知らないから仮説社http://www.kasetu.co.jp/)だったはず。 この強迫概念と「教師が全部説明しなければならない」という強迫概念が相俟って、 真面目タイプの教師と生徒を不幸にしていると思う。
「知る」「分かる」「出来る」の別を 大学初級の数学で例を出しとくと、 「実数の完備性」は知ってればいいことで、 「4次以上の行列式」は出来なくても分かってればいいこと、 「変数分離形の微分方程式の解法」は分からなくても出来ればいいこと、 って具合である。
「知る」だけでいいのなら「これ読んどいて」でいいのだと 開き直っていいじゃないか、と思う。 教科書以外を読むのも勉強だし、 それも楽しいんだと知ってくれればいい。
「分かる」はちょいと置いといて、 「出来る」が問題なのだと思う。 「出来る」ようになるには「やってみる」が前提にある。 「やってみる」うちに 勘をつかんで「分かなくても出来る」ようになったりしていたのだが、 その「やってみる」をなかなかしてくれなくなってきている。 その前に「分かる」を求める生徒が増えてきている。
これ自体は良いことのように聞こえるが、 生徒の「分かる」が「納得」で、 教師の「分かる」が「理解」と異なるものだったりする。 これが教師と生徒の関係の傷口を拡げていく。 対人関係で「納得」の度合いが変るんで、 ボクたち「変なヒト」にはこれが響いてくる。
で、まあ、人間関係苦手な身としては、 多少反発あってもしようがないやと開き直りつつ、 この説明は研究した身としては許せんと思いつつ、 なんとなくそれっぽいのを使うしかないと思うんだな。 例に出して悪いかもしれないけど、 英語記号付けhttp://www1.gifu-u.ac.jp/~terasima/なんかいい感じ。
# だめだ。こんなの書いても眠気がとれない。 未明の電話って一日響く。 家帰って、仮眠してから明日の準備しよう。
寺島隆吉. 2009. 『英語教育が亡びるとき: 「英語で授業」のイデオロギー』 明石書店. http://www.amazon.co.jp/dp/4750330620
「記号研」の寺島先生による、 下から目線の言語教育政策批判。 ほとんど虚構である「憧れのアメリカ」の言語として英語を教えるのが「国際理解教育」なのかという話と、 中下位校の現実を無視して指導要領を決めるなという話。
うーん。タイトルでこんなに煽らなくてもいいのに。 細かいツッコミどころはいろいろあるし、 〈俺たちは知らなかった〉から〈俺たちは騙されてた〉に 飛んでしまう危ういところもあるけど、 寺島先生の本はもっと読まれていいと思う。
僕が寺島先生の存在を知ったのは、 記号研が出来る前だったりする。 志望学科を決めたときに受けた忠告 〈あんなところを出て教員になったら底辺校にまわされるぞ〉 に遡る。その具体例として出されたのが寺島先生。 けど、底辺校でも普通の教員が英文読解をさせることができる 指導法を作ってきた。 底辺の厳しい現実を踏まえての批判、その重さを無視してはいけない。
教育に一家言をお持ちの方々の中には、 配当学年で理解できないので暗記で乗り切り、 学年が進んでなんとなく理解できるようになったことがけっこう多かったことを お忘れの方もかなりいらっしゃるのでは、 という気がする。
森一刀斎 先生がどこかで、 「微分のことは微分でしよう」(「自分のことは自分でしよう」)、 「微分のことは積分をもって」(「自分のことは責任をもって」) と書いていたと思う。
それはさておき、http://togetter.com/li/1059561 のような話。 こういうのを読むと、 《高校の数学教育に問題があることのかなりの責任は、 大学の数学教育の失敗のせい(残りのかなりは文科省のせい)だろうが》みたいな気分になる。
dy=f'(x)dx のような書き方や、解析学の他分野への応用については、 数教協系の高校検定教科書、 「の」つきシリーズ(『高等学校の〜』ちくま学芸文庫で、指導書と合本で再刊)で やろうとして、 検定意見でポシャったむねが、 教科書ガイドに載っていたはずである。
;; 微分演算子にDを使うのは、通っていた気がするけど、 大昔なので自信がない。
解析学だと、19世紀半ばまでの雑な展開から ヴァイアーシュトラウスなどが厳密化をしてという流れがある。 雑な時代だと dy = …… のようなのは書きやすかったんだけど、 厳密化の輸入と中途半端な美意識がドッキングしたのか、 国会図書館のデジタルライブラリーだと、 1910年代のものから、dy/dx のみで、dy = …… と書かないものが、 増えているようだ。
dy = f'(x)dx の形での展開を 超準でなくて、 標準できちんとやろうとすると、 ただでさえ学生に苦手意識のある関数に加えて、 不等式、絶対値、概数と嫌われているものが天こ盛りで、大変。 とはいえ、大学の理系では教えているはずである (そうも言えないのは他大の実践例から知っているけど)。
それにもかかわらず、 高校数学がずっと前からの受験数学の再生産になっているのは、 どういうことよ、と受験産業にいたころから、 ものすごく不満。
例の 3.9+5.1 だけど、2つに問題を分けて理解して欲しい。
前段について。
有効数字って、測定値から出てきて、 それが影響しているものだけにある。 つまり、この問題、そもそも有効数字なんて無関係。
有効数字や誤差ありの算術での「等号」を別のに 例えば〈≈〉にしとけば、よかったのに。 ぶつぶつ。 有効数字のような中途半端なものから教えるのは止めて、 誤差範囲から教育しようよ。
後段について。
前段を理解してもらえれば、 単なる表現の問題で、 筋的には 18/2 や 9/1 でもオッケーにするのかという話と同じだと 分かるはず。 なんだけど、18/2や9/1に△つけて、9.0に○つけたい奴が出る。 それはそれでいいけど、 その境界線に主観的でない根拠はあるの? 整数と小数を無意識にひいきしていない?
こういうのって簡単すぎて、 感覚で反発するような奴が出てくるから、 問題を難しくしておく。
例えば、x>0でx^2=2 の解は何? これについて「2乗すると2になる正数」と答えられたとき、 どうよ。これって本質的には√2と同じだけど、 前者でも○をつける? 前者が何もしていないので×なら後者はどう? この差って「空気」じゃないか。 ついでだけど、 x-1=1/{2+(x-1)} から x = 1+1/(2+1/(2+...))=[1; 2, 2, ...] って連分数表示だとどうよ。 分数に比べて「√2が簡単」というのは、 代数的数をひいきする「文化」に「毒された」主観じゃん。
橋爪 松園 (編). 1871. 『英算独学』 東京: 雁金屋清吉. http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/826594/41?viewMode=
明治の頭まで来ると、算数に動員されたのが和算の人たちなので、 用語が変わる。
旧漢字を新漢字に、旧仮名カタカナを新仮名ひらがなに。 「、。」は補った。
乗法は俗に云う掛算にして数を倍する法なり。 又、此の倍したる数を積と云う。 又、乗する数に大小ありて其大数を乗実と称し、 其小数を乗法と称す。 且つ此大小の総称を因数と云う。 又、乗算の記号に於ては英国常に×符を用ゆ。
前の時代に教育を受けた人たちが、教員をやるので、 建前の文書を読んでいるだけでは、 教育現場を絶対に誤解するわけやんか。
和算+西洋初級算術のごちゃが出発点で、 これを整理しようとしていた人たちに いろんな人がいるのをイメージしないと。