「なぜ《良い子の作文》の型を嫌うのか」の続き。 下のグダグダより、 制約は人を自由にする (medtoolzの本館) と Ichy_Numa先生による「日本の一般的な人権感覚」 (togetter.com) を読んでもらった方がはやいが、逃避なので。
「守破離」とは、武術の学習についての標語である。 「型」を覚える「守」、 「型」を外れて工夫する「破」、 「型」を意識しなくなる「離」という段階があるというものだ。
僕自身の論文指導は、「型」に終始する。 とくに「先行研究の整理」の型を守らせる努力をする。 自分のリサーチ・クエスチョンについての説の対立を型通りに整理できれば、 まだ「正解」が分かっていないこと、 どちらかの説を選ぶには「検討されていないデータ」が必要なことが、 分かるからだ。 型通りにできれば、 「通常科学者」に要求される「何か新しいこと」は担保される。 「破」の段階に行かなくとも、 先人を踏み台に「新しいこと」、つまりは「自由なこと」をせざるをえないのが、 「科学論文」という型のもつ意味なのだ。 といっても、 銅鉄主義という、よくある「新しさ」や「自由」になるだろうけど。
一方、《良い子の作文》の型は、 「自由に書け」と言われて、自然発生的にできるものだ。 「私」という出発点の制約、 「世間」の価値観を破ってはいけないという制約、 それでも一回性のものが必要だという制約のもとで、 何も手を加えなければ《出会い⇒気付き⇒属人的なまとめ》という型ができあがる。 この型に従っても、一回性という意味で「新しい」かもしれないけど、 「天才」を除けば、誰かがすでにやっていることをやり直しただけのものしかできない。 そして、ほとんど人は「天才」ではない。
こういう「自由」が束縛になって、 逆に「新しい」ことができないような型はいらない。
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