遺伝学会による より mutation と variation の訳語の変更提案は、 mutation の意味がどう変化したかを無視した説明をしている。
日本遺伝学会編『遺伝単』(p.12)から引用:
Genetics の概念(Bateson による造語、1905: heredityとvariationを研究する学問が日本に伝えられて以降、 「変異(彷徨変異)」という訳語が当てられ、mutationには突然変異と訳されてきたため 分かりづらかった。 英語の本来の意味、概念を区別するために、 mutationは[突然]変異、variationは多様性とした。
少し長くなるので、先にまとめておく。
- variationを「変異」に対応させることは、 遺伝学の輸入以前から現在までも行われている。
- mutation学説を輸入した時点では、variationの一部なので、 mutationを「突然変異」と訳すことは適切だった。
- mutationの意味がその後、過程とその結果を指すように変化した。
- かなり後になってmutateを「変異する」と言う人が出てきたが、 「突然変異する」としばらく競合した。
- 現在、mutationこそ「変異」と主張して、variationの訳を変えろと 遺伝学会が主張している。
まず、variationは19世紀にすでに「変異」という訳が定着していた。 ここでの「変異」は過程ではなく、いろいろあるという状態である。 ダーウィンの『種の起源』もそうだ。 これが、今でも遺伝系以外で使われる意味と用法である。 ダーウィンでは mutation は gradation とならび、変異の説明に使われていて、 専門用語ではまだない。 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/994042/46?viewMode=
遺伝学の導入とあるが、 遺伝学の一部としてフリース(de Vries)の mutation 説が伝えられた。 その説における区別が fluctuating variation「彷徨変異」と mutation「突然変異 / 偶然変異 / 不連続変異」だ。 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/951292/12?viewMode= まず確認しておきたいのは、 フリース自身がmutationをvariationの一部としていることだ。
この2つに分けるような説明は現在の学生向け事典にみられる。 しかし、当時であっても、 この2つ以外の区別も他の研究者はしていた。 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/951399/24?viewMode=
注意が必要なのは mutation説により、 mutationがはじめて専門用語になったことである。 fluctuating variation は平均まわりの変異であるのに対して、 mutation が予期しえぬ、平均を別にする(不連続な)変異である。 この時点では、mutationを「突然変異」と訳すことには、問題がなかった。
遺伝に関しては、 「彷徨変異」が「平均へ回帰する」ことで遺伝的ではないのに対して、 「突然変異」は遺伝して次の世代が別の平均のまわりに彷徨変異する。
このあと、すぐに「遺伝型」と「表現型」の区別が導入され、 1910年ごろから英語では mutate の動詞としての用法が出た。 その主語はもっぱら gene 「遺伝子」である (コーパスは Google Books)。 これにより何が起きたかといえば、 mutation が遺伝子などが変わる過程とその結果を意味するようになったことである。 ただし、これに対応する日本語動詞の確かな例は、戦前では Google Books でも 国会図書館デジタルライブラリでも 拾えていない。
「変異する」が mutate の意味で使われていそうなものは、 50年代からないわけではない。 例:「変異した染色体」 http://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_10838654_po_ART0003835073.pdf?contentNo=1&alternativeNo= 60年代はmutateの意味で「変異した」「突然変異した」の両者が混じる。
念のためだが、variationの意味の「変異」は21世紀でも使われ続けている。
言語学者である僕がこの問題に着目する理由は2つある。
1つめの理由は、言語学用語と生物学用語は、かなり重なりがあることだ。 「変異 variation」は、言語学でもほぼ同じ意味で使う重要な学術用語であり、 これを使わずに、歴史言語学も社会言語学もできない。 言語学では生物学を参照することが増えてきている。 同じ概念を分野ごとに訳しわけることになるのは困る。
2つめの理由は、言語多様性を扱う少数言語研究者として、上のような態度は 「歴史修正主義」による「自文化中心主義」としか理解しようがないことである。 それは「多様性」を大切にする態度とは、ほど遠いものである。
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