(1) 我々が研究を(古典的に)するときに次の2つの公準(要請)がある。これらは、哲学的にはツッコミどころがあるが、他よりはうまく機能してきた。
- 世界は普遍的な原理と偶有的な特殊性からなりたっている(斉一性)。我々の研究は原理を明らかにすることでも、特殊性を明らかにすることでも、どちらでもよい。
- 世界を散文的に記述し、それを知識として共有し、蓄積していくことができる(合理性)。ただし、それには確率が使われたり、何らかの変数をもつ関数が使われるかもしれない。
(2) しかし、普遍的なものは無限を含むので、実証/帰納は完全には不可能である。
- 無限集合を対象とする原理を有限のデータから完全には明らかにできない。
- 原理が明らかでないので、何が偶有的なのかも完全には明らかにできない。
(3) そこで我々が研究するときには3つを組合わせて、仮説を改善していかなければならない。
- a. データより仮説を作り出す帰納(ばあいによってはabduct)。
- b. 仮説をもとに未知のデータのふるまいを予想する演繹。
- c. データをもとに複数の仮説の優劣を判断する反証。
(4) 反証が大切であることは、我々の研究の結論が「誤り」であることに問題がないことを示す。 むしろ、研究を進めるのは、「誤った」仮説を出し続けることであり、それこそが求められる。
(5)ただし、我々がここで忘れてはいけないのは、 否定ずみの仮説とその否定に使われたデータの蓄積があることである。 そのため、次の条件の少なくとも1つは、新しい仮説を出すばあい、社会的には求められる。
- 今まで未知のデータが、旧仮説と矛盾するが、新仮説と矛盾しない。少なくとも、誤差を小さくする。
- 複数の旧仮説を置き換えることで、既知データのより広い範囲を統一的に説明可能にする。
- 旧仮説を置き換えることで、同じことを演繹できても、演繹が簡明になる。
(6)いっぽう、我々研究者が真摯であってもミスを冒しかねない存在であり、また、かなりの現象が確率により記述されるものなので、 蓄積されていく知識を調べ直すことができるような形で我々は成果を提出しなければならない。 そこで、知識の蓄積を阻害する次の3つは、研究者にとって、許しがたい行為である。
- 実際には存在しないデータを出す捏造(fabrication)
- データを自説に都合のよいように加工する(falsification)
- 蓄積をさらに遡ることを阻害する盗用(plagiarism)
(7) なお、(3b)の演繹は自然に出来るようにはならず、訓練が必要である。練習問題を解き続けなければならない。
(8) また、(3a)の帰納には、当然のことながら、データが必要である。 ただし、データをみるだけで仮説が作れるわけではない。 データをいろいろな形に整理しなおしてみたり、別の分野のデータとつきあわせをしてみたりすることで 積極的に作り出さなければならない。
(9) さらに、(3c)の反証の形で論文を書くためには、否定したい旧仮説が必要である。 これを提示してくれるのが、先行研究である。 先行研究どうしのつきあわせをすることで、自分の調査や実験で何をしたいのかが見えてくる。
(10) ところで、(7-9)は、各論の教科書に少なくとも途中までなら書いてある。 だから、それを読めるようになることが第一の目標となる。
(11) ただし、教科書は紙幅が限られているので、データは限られている。 自分で積極的にデータを集めていく必要がある。 それは分野によっては、日常生活の中でも可能だ。
(12) そうはいっても大切なのは、好きなことに取り組み、日々、面白いことを探しだして楽しむことだ。
(13) ここで言っている小難しいことは、実は、その楽しいことを共有するために工夫されてきた方法にすぎない。
;; リストの中にリストを入れようとすると、うまくいかない。
例をたくさん入れて、提示の順番も変えないと。
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