2024年1月28日日曜日

それでも公用語標準方言と教養が鍵なのだ (スラド日記 2016-03-23)

 前に書いた「書かせる試験は階層の固定に寄与するだろうの補足。

少なくとも近代以降においては標準方言は、ミドルクラスのものであるし、 それによる教養(liberal arts)もそうである。 これが主により下の階層を排除するように働いているのは、 事実である。 しかし、そうであっても、これらが:

  1. 近代以降において、 下の階層が社会的な身分上昇を狙う一番ワクの大きなツールであり、
  2. 下の階層が団結するために使える、ほぼ唯一のツールである。

(2)から説明しておくと、下の階層の方言は変異が大きいので、互いに通じず、 既存の標準方言以外に使えるコミュニケーションの手段がだいたいない。 新しく標準方言を作るような事例は、 それなりに下地があったばあい(例:通商用のマレー語>インドネシア語) を除くと成功しているものは少ない(部分的な成功例なら ノルウェー語のニーノシュクがあるけど、 デンマーク語よりのブークモルに勝てそうにない)。 そのため、たとえ革命が起ころうと、語彙の追加がせいぜいで、 それまでの公用語の標準方言が残る(例: ロシア語)ことが多い。

そして、ある程度の組織を動かしていこうとなると、 どういう手順で何をするかを明確に表現できる「お役所向け」のことばと、 それの運用能力が必要になる。 後者こそが教養(自由7科の最初の3つ: 文法、論理、修辞)だ。

(1)は、近現代が、産業革命のあとの中間層の拡大の時代である (ぼつぼつ「あった」だね……)ことによる。 学校で勝ち残って、頭脳労働に就職することが、目立たなくても最大のワクである。 目立つ《何か(芸能やスポーツ、商業など)で一発あてて》なんて例外中の例外にすぎない。 だからアメリカ合衆国は、イメージ的には 社会的に上昇ができる社会だけど、 統計的には上昇しにくい社会じゃないか。

よくある教育は、公用語標準方言とその教養を唯一の「正解」にして、 それ以外を「劣った」ものとして、 少なくとも公的な場では置き換えさせるか、 それができないものを排除するようなことをしてきている。 そうではなく、それぞれの方言とぞれぞれの文化との違いを意識させつつ、 それらに公用語標準方言とその教養を 生き抜くためのツールキットに追加をさせるようにしなければならない。

その道を示さずに、教養をミドルクラスのものだからと 教育から排除させようとする奴は、 結局のところ、下の階層の人たちを社会から排除しようとしている。 いかにそいつが斜にかまえていようが、体制側の***だろうが。

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